昨日のズームトラブル、最初のマリオ先生の『目を閉じて…』辺りから音声は途絶えてしまいましたが、クラスの趣向だと思い、暫く瞑想していました。 その後も何度か不具合はありましたが、神様の用意してくれたゲームのひとつだったのかも!と勝手に解釈してます。 今回の宿題、許す・受け入れるは私にとって結構難題です。 つべこべ言わずに宿題、とにかく実践します。
いつもパワフルで、明るく振舞っていらっしゃる紀子先生がこのような葛藤を抱えていたとは信じられないような気がしますが、それを乗り越えて来た力のようなものが常に紀子先生から感じ取れます。長い人生では誰もが苦難な状況に陥ることがあると思いますが、どんな時でも感謝の気持ちを忘れず、前向きに生きることが「許す」ということに繋がっていくかもしれませんね。
紀子さん、貴重な体験談の数々を教えて頂きまして、ありがとうございました パワフルで明るさの象徴みたいな紀子さんでさえ、お母さんとの関係性で不調和があったり、高校時代に苦い経験(リベンジされましたが!)をされていたとは…。正直ビックリしました。 私は40代に入って、やっと母親に反抗出来る様になりました。なぜ今まで出来なかったかは、母の生い立ちが可愛そうだったり、私が小学生の時にイジメにあった際、相手のイジメっ子の母親が怒鳴り込んできて理不尽な言いがかりを付けられても、グッと堪えて頭を下げていた母への申し訳ない気持ちなど、負い目を感じていたからです。 知らず知らずに、母を困らせないような生き方を選択していましたが、時折り本心の私と従順ぶっている私が衝突して、自分を粗末に扱う生き方をあえて選択した事もありました。 今は平穏に暮らしていますが、まだまだ内側のバランスの悪さが物事を捻じ曲げて見てしまいます。 今回のチャクラコースはいつも目から鱗ですし、時々グサッと痛い所を突かれる事もありますが、"自分が求めていたのはこれだ!"と強く実感しています。 許したいです。 私も成長したいです。 長々とスミマセン💧 ありがとうございました🙏
ゆきさん、書き込みありがとうございます。ヨガ1、ヨガ2でちょこちょこお話ししたこともあるかもしれませんが私が自分の体験の中で「許す」をどうやってみたか、体験談として書き込みます。誰かの参考になれば。。私の場合かなりちっぽけな話なのでなかなか許せない、という方の事柄がもっと根の深いトラウマだったりした場合全然無効かもしれませんが。。 いくつか事例を挙げます。1つは高校受験の時同じクラスのぶりっこでどちらかというと私は好きじゃなかった女の子から「あんたなんてそこ無理よ。」って言われて本当に本当に腹が立って、根暗でわりと控えめだった当時の私はこっそり、自宅机の前に「打倒〇〇ブー」って紙に書いて貼ってそこから3ヶ月ものすごい猛勉強をし、おかげでその志望校に私が受かり、そのおかげで海外に行き、英語が得意になり、大学院まで行けた、という話を振り返りながら20年経ってから母が「〇〇ブーは神様のようなものね」って言ったのを聞いてガラガラと私の中での大嫌いだった宿敵の彼女の存在が自分を成長させたということに気づけた時、あーこういうことか。短い時間軸で物事を見た時嫌いなもの、嫌なもの、嫌な思いをさせた嫌いな相手、にしか見えないものが時間軸を少し伸ばして前後の因果と合わせてみた時、だいたいどの一つ一つも絶妙にうまくできてたんだって思えて「許せる」と思いました。
もう一つは自分の母との関係。いつでも言葉の最後に嫌味があり、ヨガのクラスを終えて気持ちよく実家に行くと「あ〜遅い、あんたが喋りすぎて人様には迷惑だ」とかネガティブな言葉を必ずかけてくる母とギクシャクし、1年間ろくに口をきかない時もあったり。私は私の中で「やっと教員採用試験に受かって越してきた静岡で教員になれるというタイミングで私を身ごもり、女は働くでない。という義父母によって専業主婦を強いられてきた母には働く母に対して深い恨みがあって私の幸せはみたくないし、けなしたいんだ。」とストーリーを作り、母との会話には妙に一語一句過剰に反応したり、はなから素敵ではない話し方をする自分が数年間いました。でもその不調和が私の夫婦間に、親子間に、自分の周りの世界をぎくしゃくした負の循環に貶めていることにハッとしたこと、大切だと思う人があっけなく本人の望まない方法で亡くなることに数回であったことなどからある時、「え?私がこだわってるものって何?母は母の主観があって私も私の主観がある、到底説明できないような複雑ないろんな要素が絡み合ってできた人の受け取り方を私が変えられるはずがない。でもせめて私は母が近くにいて健康でいること、母の存在を本当は愛おしく思っているし、いつの日か亡くなったらとっても寂しいはず。ならば、今この瞬間から母の存在を歓迎しよう。」その日から物事はガラガラと変わりました。自分の周りの夫婦間、子供達、母と私、父と私、怒鳴りあうこと罵り合うことはなくなり、(もちろん人間なので時々スパイシーな会話はありますが)笑って楽しい瞬間を共有できるようになりました。
最後にもう一つは理不尽な方法で尊敬する先生が辞職させられた時。世の中はなんて不公平なんだって大きな力を許せなかったけど、ヴェーダンタの教えを1ヶ月学んで、毎日毎日これは私ではない、この体は私ではない、この心も感情も私ではない、本当の私は永遠に変わらないもので変わりゆくものは本当の私ではない。っていう(その時の私には憤りしかなくてまったく賛成できない哲学!笑!)を毎日毎日聞かされた挙句ラマナマハリシっていう聖者のアシュラムのホールに座って10分も経たないうちに体の奥の方から「全部あなたが抱えることではない。私が持ってゆくよ」ってショベルカーで全てえぐられたような不思議な感覚になって私の中で全てが解決しちゃったこともありました。
えっらい長い話になりましたが、こういう1つ1つのハプニングの後「許す」を聞くと私は「そうそう。それそれ」と思えるし、私は私たちなんだって言われても歯がゆい気持ちではなくなりました。
きっと一つ一つの許しの形はいっぱいあってケースバイケースだと思いますがなにかヒントになれば幸いです!
Mario先生より。許すことが必要なのは、許さないとネガティブなエネルギーが体内にある>それはネガティブなエネルギーとして私たちの進化(成長)を妨げてしまう。進化(成長)するためには許すことによって自分がより高いエネルギーとつながり、そのエネルギーを使えるから成長できる自分になります。そのエネルギーは宇宙だから、許すことで自分がもっと宇宙のエネルギーとつながりたいのです。それでも難しかったら無理しなくてもいいです。 マリオ先生のコメントをただ訳しました。